下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆毒/ディフェ

 茶会に誘われる、という経験は腐るほどしてきたが(主に士官学校時代の担任から)、ディミトリに誘われるのはそういえば初めてだった。
 供された紅茶を一口飲み、用意された茶菓子に手を伸ばす。ほろりと口の中で溶けて、香ばしい胡桃の香りがいっぱいに広がった。甘くない。こちらの好みを熟知していることがわかる、的確な茶葉と茶菓子の選択に、フェリクスの心は少し浮かれる。対面でその様子を凝視されていなければ、の話だが。

「さっきからなんだ。じろじろと鬱陶しい」
「あ、その……。お前をこうして持て成すのは初めてのことだろう。今日はどうしても、お前に話したいことが……いや、その前にお前に謝るべきことがあってな」
「……謝る?」

 思い返してみるが、心当たりがない。ひたすら落ち着かない様子のディミトリを怪訝に思いながら、しかしわざわざこちらから水を向けてやる気にもなれず、フェリクスはやや乱暴に紅茶を煽る。

「まあ……茶も菓子も、悪くはない。今ならしゃざ、い、も」

 受けてやっても良いからまず事情を話せ、と、フェリクスの口はそう言葉を繋ぐはずだった。だが、突然舌が不自然に縺れたかと思うと、その直後。
 ぐら、と視界が傾いた。
 どこからかひゅー、ひゅー、と耳障りな音がする。四肢に力が入らない。視界が明滅して、白と黒の、気味の悪い世界が目の前に広がっている。全身から冷や汗が噴き出して、意思とは関係なく肉体が短い痙攣を繰り返す。その度に体中に激痛が走り、吐き気が途絶えることなくフェリクスを襲った。
 その時になってようやく、自分が倒れていることに気が付いた。声が出ない、どころか呼吸すらままならなくなりつつある喉から、荒い呼気だけが漏れている。耳障りな音の正体はこれだったか。

(――毒だ。)

 どこに仕込まれていた。紅茶か。菓子か。それとも茶器か。それとももっと前か、毒がすべて即効性とは限らない、時間差で効果を発するものもある。
 ――ディミトリは。ディミトリは、無事なのか。
 思考を巡らそうにも、絶え間ない痛みがそれを許さない。そういった種類のものなのだろう、これだけ肉体に異常が発生しているにも関わらず、意識を手放すことは叶わなかった。やや混濁しているが、脳は叩きつけられる痛みばかりを正確に拾ってくる。拷問用の毒とは。なんと趣味が悪いことか。
 視界は相変わらずぐにゃぐにゃと歪みながら明滅を繰り返していて、頭がおかしくなりそうだった。鼻をつくような刺激臭。喉奥を何かに塞がれる気持ち悪さ。目を閉じてたくとも、目蓋も痙攣していて言うことをきかない。
 フェリクスの身体は今や、完全に己の支配下になかった。
 この苦痛を表現し得る言葉は、この世に存在しないだろう。どのような悪夢だろうと、これほど酷くはないだろう。どうにか立ち上がろうと思考は必死に叫ぶも、まず自分の手足がどこにあるかすらわからない。今、床に横たわっていることは理解しているが、平衡感覚は狂っているし、触れている筈の絨毯のやわらかさも感じ取れない。
 ――ディミトリは、王は、どうなっている。
 身内相手だからと、銀食器を使うという貴族であればごく当たり前の行動をとらなかった彼の甘さを責めるべきだろうが、それに関しては自分も同罪だ。なにより、罰されるべきはこのような愚を犯した存在である。身体さえ動けばすぐにでも剣の錆に、いや、違う、今はそんなことよりも。
 ディミトリはまだ紅茶にも菓子にも手をつけていなかった、はずだ。結果として、俺が盾となれたのならこれ以上の喜びはない。それ以上に悔しさはあるが。
 うわん、と耳障りな音が耳朶を通って脳内に反響した。頭が割れるように痛む。不快な音響は鳴り止まず、しかしやがて、それが意味のある言葉であると気づく。――フェリクス。己を呼ぶ声だ。ディミトリの、声。

「ディ……ミ……」

 相変わらず呼吸すらままならず、舌もうまく動かないが、喉を絞り切るような痛みに耐えながら、なんとかそれに応えた。溢れた声はひどく嗄れていて、きちんとフェリクスの想いが伝わったかは分からない。
 ーーお前が無事で良かった。お前の為に在れて、俺は幸福だった。
 思考が朦朧としてくる。毒の効力とは別に、苦痛に耐えきれなくなった脳が強制的に痛みから意識を切り離そうとしているのだと理解した。下手人がまだ近くにいないとも限らない。だが、今の自分ではどちらにせよ足手まといにしかならない。二度と目覚めない可能性も高い。それならせめて、最後に伝えたい言葉を。
 ――ディミトリ、俺はお前をこの世で最も愛している。

「どうされたのですか陛下……フェリクス!? これは一体」
「ああドゥドゥー! すまない医者を呼んでくれ、フェリクスが、フェリクスが! この間手に入れた媚薬を盛ったら倒れてしまったんだが効きすぎたんだろうか!?」
「……陛下、あの、用量は守られたのですよね?」

 用量?と、不思議そうに復唱するディミトリの声。――目が覚めたら、5回は殺そう。あとさっきの言葉は忘れよう。フェリクスは強く心にそう決めて、意識を手放した。