下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆霧中/フェリクス

 

 乳白色の霧が身体に纏わり付いて鬱陶しい。魔導で生み出されているというそれは確かに霧らしく水分から成っているようだが、ねっとりと絡みついてくるように感じられて、その不快さにフェリクスは本日何度目か分からない舌打ちをした。

  霧に阻まれて、燦々と降り注いでいるはずの陽光は一切地上に届かず、視界は悪いままだ。進めども進めども一向に薄らぐ気配がない。『霧を操っている魔導師を探せ』と指示を受け、部隊単位で散開してから随分時間が経ったように思うが、未だそれは成っていないらしい。霧の中から現れた敵を斬り伏せながら、フェリクスは小さく唸る。自分の動きがやや鈍っている自覚はあった。

 魔導の霧などという搦手を使ってくるあたりで察してたが、敵はそう強くはない。ほぼ魔導師で構成されているらしい相手の部隊は、自分たちが発生させた霧のせいで火魔法は本来の威力を存分に発揮することはできず、霧を吹き飛ばしてしまうために風魔法も使えない。しかしそれでも霧中からの不意打ちを繰り返す方が勝機があると踏んだのだろう。所謂ゲリラ戦法だが、少なくとも、研ぎ澄まされたフェリクスの感覚は虚を突かれてやれぬ程度には鋭い。避けることは容易く、倒すこともまた容易い。今のところは、まだ。

 鎧を着ている者はそうでもないようだが、布の服と皮鎧という装いでこの場にいるフェリクスと、この霧は非常に相性が悪かった。水気をたっぷりと吸った衣服が身体を包んでいる感覚がたまらなく不快で、なにより、剣を握った感触に違和があるのが致命的だった。柄が滑るのだ。服のせいで身体は重く、苛立ちが募る。集中力を切らしては元も子もないしそのような油断はしないが、腹立たしさはおさまらない。

  再び、敵が霧中より姿を現した。しかし気配が斜め後方にもある。敵も莫迦ではないらしい、と、前方の敵を素早く、そして難なく斬り伏せてからフェリクスは後方に意識を向けた。味方が撃った魔法の対処をこちらがしているうちに、背後から奇襲をかける心算だったのだろうが、撃たせる前に倒してしまえば済む話だ。莫迦ではなかったようだが、単純に、強さが足りぬ。或いは、相手の力量を正しく測れていないという意味ではやはり愚蒙の類に違いない。

  フェリクスに油断はなかった。霧中の気配が揺らぐのを察し、敵の姿を認め次第、先程と同じように魔法を撃たせる間もなく斬り捨てるつもりで剣を構えた。だが、

「ガッ……!?」

  衝撃に耐えられなかったフェリクスの肉体は勢いよく吹き飛ばされた。側頭部から地面に叩きつけられ、衝撃で一瞬意識が飛んだ。なんだ。なにが起こった。ぐらぐらする頭を抑えながらなんとか立ち上がるも、視界に閃光が舞って、ただでさえ悪い視界は真っ白く濁っている。それでもなんとか冷静に敵の気配を探って、その方向へと剣を構えた。この感覚には覚えがある。

サンダーストームか……!まさか遣い手がいるとは)

  迂闊だった。通常の戦場であっても目視が難しい位置から撃ち込まれるその魔法は、この戦場とあまりに相性が良かった。良過ぎるといっても良い。纏わり付く霧はただでさえ高い雷魔法の威力をより凶悪なものとしている。 狙った一点に向け天からいかづちを落とすような術式ゆえ、命中度があまり高くないのが難点なのだが、この霧はおそらく命中範囲をも多少拡げているようだった。忌々しいことだ。フェリクスは舌打ちを漏らす。サンダーストームは術師本人をも巻き込むことから近くに撃つことは出来ない。懐に潜ってしまえば無力化は安易だが、この霧ではそれも難しい。

 だが、あのような上級魔法、そう何発も撃てるものではない。並みの術師であれば1発か、精々2発が限度だろう。であればーーフェリクスの思考は素早く判断を下し、気配のある方へと一気に突っ込んだ。

 霧を纏った空気が揺らぐ。恐れゆえか、驚きゆえか。フェリクスは水気を含んでやや泥濘んだ地面を強く蹴って、飛び上がると同時に上段で剣を構え、そのまま勢いよく振り下ろした。手に馴染んだ感触があり、鈍い悲鳴が後に続いた。だがここにあった気配は一つではない。素早く剣を返し身体を反転させたフェリクスを烈風が襲う。中級の風魔法。身を捻って直撃を回避しながら、莫迦め、と呟く。己が起こした風のせいで霧が僅かに晴れ、相手からはフェリクスの姿がくっきりと見えていることだろう。それはつまり、フェリクスからも同様であって。

 そのまま剣を振るおうとしたフェリクスを猛烈な違和感が襲い、肉体が意思とは関係なく不自然に傾いだ。剣が無い。すっぽ抜けた!霧で手が滑ったか!

 獲物を失った敵を好機と見たのか、肉薄したフェリクスから敵の魔術師は逃げようともせず、再び風魔法を撃ちだした。至近距離から放たれるそれは容赦なくフェリクスを襲い、上体が大きく後ろに倒れる。と同時に、フェリクスの身体がぐりんと半回転する。彼の右足は敵の側頭部を的確にぶち抜きながら、勢いよく吹き飛ばした。ゴリッ、と何かを砕く音と共に魔術師の身体は一回転し、そのまま倒れ伏して動かなくなった。

「剣は確かに俺の最も得意とする得物だが、」

 魔法を避けつつ逆立ちの体勢からの回し蹴りをお見舞いしたフェリクスは、両脚を地に付けると、手套についた泥をはたき落としながら不機嫌そうに言った。

「だからといって、それが無ければ勝てるなどと舐められるのは心外だ。敵の力量も分からん阿呆め。……まあ、もう聞こえてはいないだろうが」

 霧が晴れてゆく。どうやら此奴が「アタリ」だったらしい。近くに転がっていた剣を拾い上げ、泥を払って鞘に納めてから、フェリクスは天を仰いだ。燦々と降り注ぐ陽の光は優しくこの身を包んでいる。早く服が乾けばいいが、と思った。