下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆夢じゃない/ハンマヌ

 ただいまあ、と間延びした声が玄関の方からして、次いで、ドタバタガタガサゴソと騒がしい音が響いた。やがて、寝室の扉が開くと同時に、殆ど倒れこむようにして女が部屋に転がり込んできた。うう、とかぐう、とか、言葉にならない呻き声を上げている。ハンネマンはため息と共にそれを出迎える。

「おかえり、マヌエラくん。……怪我はないかね」

 先程の騒音が、帰宅した彼女が荷物を放り出し、よろめいて一度壁に手をつき、花瓶を飾っている棚を蹴り飛ばし、ぐらついた花瓶を慌てて支えようとしてそのまま棚に突っ込み、コケて、その勢いで寝室の扉をぶち開けてきた、という経緯を経ていることが分かっているゆえの問いかけである。見なくても分かる。分かるように、もうなってしまった。
 ぐだぐだに酔っ払ったマヌエラが床に座り込んだままこちらを見上げた。上気した頬。髪も服もところどころ乱れている。それだけなら官能的と呼べなくもない姿だが、目が完全に座っている。今日はいつにも増して深酒をしたようだ。
 ハンネマン、と彼女の艶めいた唇がどこか夢うつつにその名前を呼んだ。

「……なんであたくしの家にハンネマンがいるのかしら。幻覚?」

 続いた言葉に、ハンネマンは思わず固まった。彼女を抱き起こすべく、しゃがみこんだ中途半端な姿勢のままで。
 爪紅を塗った指先が伸びてきて、呆気にとられた彼の頬をぺたぺたと触った。輪郭を確かめるように。親指が自慢の髭を撫で付ける仕草が少しくすぐったいが、されるがままにされておく。ややあって、『触れる……』とマヌエラは再び不思議そうにそう呟いた。ようやく現実だと気づいたか?

「……最近の幻覚は触れるのね」
「何を納得しているのか知らないが、我輩は本物だぞ」

 そもそも、ここは君の家であって我輩の家でもあるのだが。それを分かっているのかね。ハンネマンはぼやく。よもや結婚したことを忘れているなどとは言うまいな?