下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆闇に潜むは/双璧

 帝都でまことしやかに囁かれている噂の一つに、こんなものがある。

――宮内卿は吸血鬼だ。かの御仁は夜な夜な帝都の闇に紛れては、人の生き血を啜っているのだとか。いやいや、若い女を浚ってはその処女血を飲むのだとか。はたまた、血を吸った相手を己の眷属として操ることができるのだとか。そうしてこの帝都の隅から隅まで目耳を、おっと、これ以上はやめておこう。どこで知られるか分かったものじゃないからな。お前さんも気をつけな。ほら、今にも、後ろに。

「……だ、そうだよヒューベルト」
「あながち間違ってはおりませんな」

 まるで歌劇でも演じているかのような大袈裟な身振り手振りで、臨場感たっぷりにその噂を語った男は、陽光の似合う明るい赤毛をした美丈夫である。対するのは長身の痩躯に黒衣を纏った男で、濡羽色の髪とやや陰鬱さを感じさせる顔の造形も相まって、闇より抜け出でてきたかのような雰囲気を醸し出していた。

 「民の噂などあてにならぬと思っておりましたが……これまたどうして馬鹿にはできない」
「まあ、火のないところに煙は立たぬと言うしな。どうも、君、このところ派手にやっているようではないか」
「御冗談を」

 どこか穿つようなその言葉に、黒衣の男はうっそりと笑った。

 「帝都は広い。一人二人、消えたところで分かりはしませんよ」
「そうとは限らないだろう。彼女たちにも家族が、友が、知人がいたはずだ。きっと彼らは血眼になってでも、大切な人の行方を追うぞ。君のことだ、そう簡単に辿り着かれることはあるまいが、先の噂もある。あまり侮っていては足元を掬われかねない」
「左様ですか」
「なに、責めているのではない。ただ君の身を案じているのだ、私は」
「……肝に銘じておきましょう」

 この国の宮内卿の顔をした男は鷹揚に頷いた。

「して、フェルディナント殿。今宵は如何されるので?」

 視線の先には、花盛りだろう年頃の女が一人と、まだ少年と呼んで差し支えない年齢の男が一人。いずれも床に身体を横たえていて、ピクリとも動かない。胸が静かに上下していることから死んではいないと分かる。薬か魔法か、なにかしらの手段で眠らされているようだった。問われた男はしばし考えるそぶりを見せ、ややあって少年を指さした。

「今日はこちらかな」
「では、すぐに用意させましょう」

  ありがとう、と朗らかに笑った男はこの国の宰相の顔をしていて、けれど、昼間の彼にはありえない――そして普通の人間であればあり得ない、鋭い犬歯がその口元からは覗いている。犬歯というよりも、その様相は、牙という名が相応しいか。蝋燭の灯りだけが照らす狭い部屋の中、鮮やかな橙の瞳は妖しげに煌めいている。

 「いつも面倒をかけるな」
「今更でしょう」
「それもそうか。ああ、君の首を噛ませてくれたらなあ。それだけで君にこんな手間をかけさせることも、くだらない噂を耳に入れることもなくなるというのに」
「お断りします。私は人として、貴殿に見送られて死ぬと決めておりますので」
「知っているさ。それでもなお、君と永遠を生きたいと願い続ける私を愚かだと笑うかね?」
「まさか」

 こどもが無邪気に花を手折るような気安さで少年の首を折りながら、悍ましき吸血鬼と噂をされる男は、そっと秘密を口にする可憐な乙女のように囁いた。

「あまり唆さないでいただきたいものですな。いつだって私は、頷いてしまいそうで恐ろしいのですよ」