下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆女神の見えざる歯車/ベレディミ


 命を救われた恩人が、士官学校で教鞭をとることになった。運よく俺の学級を受け持つと知った時には喜んだが、後々、先生が自ら青獅子学級を「選んで」くれたと知ったときは猶更嬉しかった。先生は素晴らしい人だ。俺が全力で打ち込んでも、それを容易く受け流して見せる技量。傭兵としての経験に裏打ちされた、豊富な軍略知識。あまり語らず、あまり喋らず、あまり表情も動かない人だが、触れるだけで温かくその心は美しかった。味も分からない食事すら先生とならば楽しかった。

 そんな先生を、好きになった。

 あってはいけないことだとは理解していた。俺は王子だ。それも、唯一の。
 平民で、傭兵あがりで、素性に不明点が多い。子を為せる為せないという以前に、この人を王となる俺の伴侶に選ぶことはできない。それでも仄かな想いを抱くことは許されるだろう。誰にも告げぬまま、秘めやかに、緩やかに、いつか蓋をする。そう、思っていたのに。
 ずっと見つめていれば分かることもある。俺はよく言われる通り、どちらかといえば人の機微には鈍いほうなのだろう。それでも、好きなひとに関しては違ったのだ。先生も俺に好意を持っていることに、気付いた。気付いてしまった。そうなったらもう抑えることはできなかった。
 おおよそ喜怒哀楽というものを殆ど発露しない先生が、俺の前でだけ仄かに笑みを浮かべ、俺の前でだけほんのりと頬を朱に染めて、俺の前でだけ甘やかな響きを伴って、
「ディミトリ」
 と、かたちのよい唇がその名を紡ぐのがどうしようもなく幸福だった。
 これが恋か。これが愛か。
 この広い世界の中で、比翼連理となれるたった一人を見つけ出すこと。砂漠の中から一粒の黄金を探すような、途方もない労苦。それほどの幸運を俺は得たのだ。

 俺たちの関係は密やかに築かれていった。級長としての立場を少しだけ利用して、出来るだけ不自然でないように、先生とふたりきりになったりもした。先生も俺を受け入れてくれた。俺は先生が眠る傍で、ただ、じっとこの人の寝顔を眺めていた。ながらく忘れていた、幸福とはこういう時間だったのだと思い出した。
 先生と居るなら、とドゥドゥーも安心した様子で俺を見守ってくれた。眠れずにいた夜も、遅くまで先生の部屋で話こんでしまった、と言えば皆あっさりと納得した。俺を信用していないわけではないだろうが、どちらかといえば、この短い期間で先生という人を信頼したのだろう。それが誇らしくもあり、少し悔しくもある。
 俺が愛した人がこんなにも素晴らしいのだと、世界に向けて誇らしく思う。俺だけが知りたかったと、悔しいと、思うのも間違っているのに。けれど、俺の先生だ。俺だけの。俺の。

「ジェラルトに言う」
「……え?」

 幸福の絶頂から、突き落とされるのはいつだって突然だ。
 覗き込んだ奈落の底で、先生が微笑んでいる。
「この関係は秘密だとディミトリは言ったね」
 そうだ。その通りだ。保身からではない。俺は純粋に先生を愛している。だからこそ知られてはならない。心無い言葉が、容赦のない視線が、愛する人を苛むことが許せない。無知蒙昧な有象無象から先生を守らなければ。
「こういったことは、親に報告するものだと聞いた」
 誰だ。先生に余計なことを吹き込んだのは。騎士団長であるあの人に知られれば、話は一瞬で教会の上層部まで届くだろう。そうなったら、俺は。
「ディミトリが好きだ。それをジェラルトにも伝えておきたい」
 待ってくれ。それは困る。俺はファーガスの王子なんだ。お前のことは本当に心から愛しているけれど、お前を伴侶にと望むことが、俺の立場を鑑みればどれほど困難な事か分かるだろう。
「ディミトリ?」
 おおよそ感情と言うものがついぞ浮かんでいない瞳が俺を見る。
 覗き込んだ奈落の底、は。

 気付いたら俺は先生の部屋で荒い息を必死に整えていた。いつの間にか陽が沈む刻を迎えていたらしい。窓から差し込む夕日が俺を、先生を、部屋の中を、真っ赤に照らしていく。立ち尽くす俺を、手に握った燭台を、床に倒れた先生を、その頭からどくどくと流れ続ける血潮を、照らしていく。
「……先生」
 呼びかけても返事は無い。先生はぴくりとも動かない。
 手から滑り落ちた燭台がけたたましい音を立てた。台座の部分には血がべっとりと付着している。先生の血だ。どうして。何故こんなことに。俺が殴ったから。俺のせいで。違う、先生があんなことを言うから。先生が。先生のせいで。
 崩れ落ちるように膝をつく。震える手で触れた先生の首筋はまだ温かくて、薄い皮膚の下で脈打っていることが伝わってきて、俺は息をのんだ。

 ――生きている。生きている。生きている!どうすればいい。落ち着け。まだ間に合う。隣はドゥドゥーの部屋だ。先程の音は聞こえただろうが、わざわざ教師の部屋を訪れて確認するほどの騒音ではない。俺が今ここにいることを知っていればその限りではなかっただろうが、ドゥドゥーはそれを知らない。見れば驚くだろうが、あいつは俺の忠実な従者だ。話をすれば……なにをどこから話すというのだ。

 ああ。先生。先生。
 濃翠の髪をそっと撫でる。後頭部の傷さえなければまるで眠っているようだ。今にもぱちりと目を開けて、俺の名を呼んでくれたらいいのに。慈しみをもって、抱きしめてくれたらいいのに。あんなことを口にしたことなど忘れて、今までと同じように、俺の傍に居てくれたら良かったのに。
 もう、その願いは永遠に叶わないのだ。先生が、その愛が、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドという存在を……ファーガスという国をおびやかしてしまったから。ごきり、と鈍くて軽いおとと共に先生の首を今度こそへし折った。
 ぱりん、と硝子が割れるような音がどこかから響いた。誰かが粗忽をしたのだろうか。皿か、花瓶か、窓か……いずれにせよ、惨事になっていなければいいが。
「ジェラルトに言う」
「……え?」
 幸福の絶頂から、突き落とされるのはいつだって突然だ。
 覗き込んだ奈落の底で、先生が微笑んでいる。

 先生は俺に甘えるようにしなだれかかったまま、訥々と言葉を紡いでゆく。ああ、頼む、そんなことは言わないでくれ。それ以上は口にしないでくれ。そうでないと、俺は。もう一度。今度こそ。……今度こそ?
 気付けば俺の手は寝台脇にあった燭台を振り下ろさんと、
「それはもう見た」
 じんと手が痺れた。けたたましい音がして、それが床に転がった燭台が出した音だと気付いて、ようやく、無意識のうちに手にしていた燭台を叩き落されたのだと理解する。俺は一体何を。この燭台で先生を。まさか。そんな。
「待っ……」
 追いすがろうと一歩踏み込んだ先で、なにかに足を取られて無様に転んだ。
「ディミトリ」
 世界で一番愛おしく美しく悍ましい唇がかろやかに俺の名を呼ぶ。……悍ましく? 俺は何を言っているんだ。さっきから何かがおかしい。何かが。
 いや、おかしいといえばそもそも何故俺は――
「感情は難しい。芽生えることも、定着することも、継続することも、容易じゃない」
 先生が俺に背を向けている。立ち上がらなければならないのに、何かが足に纏わりついていてそれが叶わない。力づくで空を蹴れば、じゃらり、と耳慣れない、だがどこか聞きなれた金属音がした。
「でも、どれだけ時を巻き戻しても避けられない運命があるように、どれだけ時を巻き戻してもなかったことにならないものがあるんだ。洗い立ての敷き布はまっさらに見えるけれど、染みがついた過去がなかったことになるわけじゃない。綺麗に磨かれた皿は清潔だけれど、水滴や埃が一切ついていないわけじゃない」
 先生が部屋の扉を開け放った。床に這い蹲ったまま、先生を見上げている俺を、通りがかった生徒が信じられないものを見るような目で見ている。嗚呼。駄目だ。これでは。見られてしまった。もう取り返しがつかない。ここから先生を捕えられたとしても、俺の命運は変わらない。

「運命が変わったんだ」

 先生がなにかを言っている。こんなに喋る人だっただろうか。こんなに笑う人だっただろうか。こんなに、こんなにも。俺の感情を無碍にする人だっただろうか?
「長かった。ここまで。繰り返し。繰り返し。ディミトリを手に入れる為に」
 差し出された手を、呆然と見る。
「ディミトリ」
 先生が笑う。
「ジェラルトのところへ行こう、一緒に」
「そっ……それは、出来ない」
「何故?」
「俺は!お前を愛している。だから傷つくと分かっていることに巻き込みたくない」
「ジェラルトは自分を傷つけたりしない」
「そうではなくて!俺は……俺はお前を伴侶には……!」
 先生が俺の頬に触れる。ぞわ、と全身が総毛立った。あれだけ甘い言葉を紡いだのが嘘のように、あれだけ触れ合ったのが嘘のように、俺の心の中が暴れだす。おかしい。おかしい。俺の感情はどうしてしまったんだ。どうしてこの人をこんなに好きだと、思い込んで、いたのか。

「その右目も、もう失わせわしないよ」

 その言葉を聞いた途端、俺の右目が燃えるような痛みに襲われた。
「ア、アァッ!うああああああああ!!」
 痛い!痛い!痛い! 恥も外聞も忘れてのた打ち回る。掌を押し当てたところで痛みが引くことはない。まるで無理矢理瞼を開かされて、力ずくで眼球を抉り取られているようだった。ぶちり、ぷちり、と神経が千切れてゆく音に気が狂いそうになる。目玉は間違いなく掌の下に、瞼の下に、ぼろぼろと涙を零しながら存在しているというのに!何故!
「やめろ!やめろ、やめてくれ!!ァあああああ!!俺がっ……ぎッぁ!俺が!俺が何をした!」
「何も」
 先生が笑った。奈落の底から、俺を見ていた筈の瞳が俺をうっそりと見下ろしている。奈落の底にいるのは間違いなく俺の方で、
「ディミトリ」
 先生が笑う。
「ジェラルトのところへ行こう、一緒に」
「ひっ……」
「世界中に、自分を、愛していると言ってくれ