下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆中庭のふたり/ハピコニ

 コンスタンツェは貴族令嬢であるから、今日という日をそれなりに楽しみにしていたのである。けれどハピがくるりと背を向けた瞬間、その手を取ってついてゆく以外の選択肢は頭の中から消えてしまった。どうして、と疑問に思う余地もなく。
 あっちは楽しそうじゃんね、とハピが言った。続いた言葉は、口の中にめいっぱいものを詰め込みながら、もごもごと喋ったので全然聞きとれなかったが。
「お行儀が悪いですわよ、ハピ」
 コンスタンツェはそれを嗜めて、ついでに、彼女の唇の端にくっついた焼き菓子の食べかすを手巾で優しく拭ってやった。中庭にいても漏れ聞こえてくる音楽と、歓談する人々の愉しそうな騒めきは、寒々とした月が見下ろす空気をちっとも温めてはくれない。二人は身を寄せ合って、この日の為に用意された豪勢な食事を(ハピが会場を出るついでにかぱらってきた)ちまちまと摘まんだ。
「……このまま戻りませんの?」
「うん。どうせハピ、踊れないしね」
 バルトやコニーと違ってさ、とハピが言う。コンスタンツェは一纏めされた相手にめちゃくちゃ不服を覚えたが、すんでのところで言葉にするのは我慢した。あの男のする踊りなぞ、酔っぱらった挙句の腹踊りしかついぞ見たことは無かったが、ああ見えて貴族の嫡子として責任を果たしてきた男でもあるのだ。見せていないだけで、舞踏の基礎はきちんと身についているだろうから。
「コニーは戻らなくていいの?」
「別に……いいんですわ。貴方がいない場所で踊っても、愉しくありませんもの。きっと」
「そう?」
 不思議そうな顔をするハピから視線を逸らして、本音には蓋をする。
 本当はただ――大切な友人を邪険にする人たちと一緒に踊りたくなんてなかった。楽しい舞踏会だと嘯くのなら、彼女が、そんな場所でため息をつくなんてことあり得ないだろうに。台無しにされては困ると囁き合う声こそが、悲劇を引き起こす引き金になり得るというのに。分かってなお異物を阻害するようなやり方は、かつての帝国と、ヌーヴェル家の在り方そのものだ。
 脅威足り得るものを排除する。それが正しい生き方だと理解している。貴族として。だからこそコンスタンツェは同じ「正しい」方法で家の再興を目指すと決めているのだし――けれど、時折無性に感情が揺れてしまうのは、ハピと出会ったからだという自覚はあった。
「ああ、でも残念ですわね! 貴女に私の華麗な踊りを披露できなかったことは!」
「ふーん。じゃあ、今ここで踊ったらいいじゃん。ハピ見てるし」
「……なにを仰ってるんですの? 舞踏ですわよ、一人で踊れるものではないでしょう」
「あー、そういや皆くっついてたね。こう、べたって」
「くっついて……いえ、否定はしませんけれど。貴方、もう少し言い方というものが……」
 しばし憮然として、それから、コンスタンツェはどうにも可笑しくてたまらなくなった。貴族的な正しさは、彼女の前ではまったく役に立たない。行儀よくカトラリーを使うことも、丁寧に高級な茶葉を淹れることも、こうして、手を取って踊りに誘う作法のひとつとっても。
「お手をどうぞ、ご令嬢」
「……なんのマネ?」
「ただの気まぐれですわ。私のリードを受けて、舞踊の初歩を学ぶことができるだなんて幸運、他の方には決してあり得ない栄誉ですわよ!」
「いや別にいらないし……」
 言いながらも、ハピは掌についた食べかすをぱっぱと払って、差し出されたコンスタンツェの手を取った。遠くから流れてくる音楽に乗って、ぎこちなく足を踏み出す。それは踊りというよりも、ただ抱き合って揺れているだけのような拙いものだったけれど。
「楽しいね」「そうですわね」
 ふたりは額をくっつけ合って、くすくすと笑った。
 だれも見ていないのだ。月明かりの下、ここは二人だけの為の舞踏会場だった。湧き上がる感情を隠すことにも、慣れぬ動きのぎこちなさを取り繕うことにも意味はない。体温を分かち合うように寄り添って、作法も礼儀も無視して好きなように踊る。曲が終わるまで、ふたりはしばしそうして戯れていた。