下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆死地/フェリ+シル

 突出しすぎた、と思った瞬間にはもう遅かった。油断はなかった。敵がその一枚上手をいっただけの話だ。背を向けた兵を切り捨てるべく踏み出した先は、すでに魔導砲台の攻撃範囲内だ。フェリクスは戦場で、はじめはわかりやすく剣士として振舞うことを決めているから、こういう時的にされるのには慣れていた。魔法兵としての経験値があるかどうかは、見た目で判断できるものではない。剣士として戦う方が性に合っているというのもある。それでも切り札は、むやみに切らないから切り札足り得るのであって。
 相手の力量を推し量り、受け切るのに問題ないだろうと判断を下す。目の前の兵を片付けた後、そのまま魔導師を捕縛しに向かうかと考えた。砲台はひとつ奪えればそれだけで戦況は有利に傾く。
 風切り音をフェリクスの耳が捕らえたのは、その瞬間。
 思考より先に肉体が反応し、そして、それよりもフェリクスの足を矢が貫く方が速かった。がくん、と体勢が崩れると同時に、さきほどまで逃げに徹していた兵たちが素早く転換した。囮か! 気付いたところでもう遅い。残党狩りのつもりで突出しすぎた。今すぐにフェリクスの退路を確保できる人員は近くにいない。連れてきた騎士団は戦のさなかで既に死んだか散り散りになっている。己の指揮能力が秀でていないのはフェリクスにも自覚があったが、それがこんなところで響くとは。

 フェリクスとて伊達に戦場に立ってはいない。多勢に無勢だろうが、己が手負いだろうが、引けを取る気は一切なかった。だが、公国は今日に限って戦場に厄介なものを持ちこんでいたのである。そのうちの一匹が、殺し損ねた兵の指示に従ってこちらに飛び掛かってきた。
 人工的に造られたらしいこの魔獣共は、ただの獣と異なり、ある程度人の意志や言葉を汲むようだった。今の自分にはやや荷が重いか――フェリクスは素直に不利を認めて、一度距離をとるべく後ろに跳んだ。
「しまっ……!」
 踏み込みが浅い! 足の傷がじくりと痛む。矢を抜いても出血が激しくなるだけだと分かっているから放っておいたが、矢の一本の重みは、容赦なくフェリクスの目測を狂わせた。避けられたはずの攻撃が目の前に迫る。このままではもろに喰らってしまう。これで死ぬようなことはなかろうが、それだけだ。普通の魔獣と違って此奴らは、戦場において「必要なこと」を躾られている。吹き飛ばされる先は、敵陣のど真ん中に相違ない。

 この傷でどこまでやれるか。ぐっと歯を食いしばり、衝撃を殺すべく咄嗟に腕を前にやって――不意に横から衝撃が来た。なにかが容赦なく横腹を打った。予期していなかった痛みと衝撃に、フェリクスは無様に地面へぶちのめされ、そのまま二度三度と転がった。
 ――何が起きた?
 起き上がろうとした拍子に、足に激痛が走る。こいつのせいで受け身も取れなかった。更に傷は深くなっている。先ほどの衝撃で地面に当たったらしい矢は中ほどで折れており、しかしその分フェリクスの肉に更に深く食い込んでいる。しかし、そういった思考を巡らせる余裕がある程度には、周囲は安全圏と呼んで良い空間だ。無論、敵はいまだ健在であり、フェリクスが立ち上がる頃には再びこちらと切り結ぶことができる距離ではあったけれども。
「フェリクス!」
 聞きなれた声が己を呼ぶ。はっとしてそちらに視線をやれば、鮮やかな赤毛と、それが霞むほど悍ましく煌々と紅く光る槍が見える。紅き光がぶぉんと空中に線を引いて、それと同時にあちこちで悲鳴と鮮血が舞った。
 近くには馬が一匹、魔獣に踏み殺されて死んでいる。これか、と気付く。おそらくシルヴァンがフェリクスの危機に気付いて馬で突っ込み、フェリクスは馬に跳ね飛ばされ、そしてその直前に馬から飛び降りたシルヴァンは敵地のど真ん中、と。そういうことだ。
「余計な真似を……!」
 フェリクスは歯噛みした。本心ではないが、そう思ったのも事実だった。シルヴァンは兵士としても優秀だが、己と異なり指揮官としても優れた才覚がある。さまざまな戦場で八面六臂の活躍を見せるこの男は、騎士団による計略や連携を活かした戦功が非常に多かった。今日もそうしてここにいたはずだ。それを捨ててまでもフェリクスの身を守ってくれたことに、喜びよりも悔しさが勝る。足手まといになるのは御免だ。一方的に守られるなど、あり得ない。
 立ち上がり、剣を握る。息が苦しい。脂汗が額に滲む。脚の傷は焼け付くように痛む。毒かなにかが塗られていたかもしれない。

――だからなんだというのだ!
「シルヴァン!」
 己を奮い立たせるように、その名を叫んだ。服がじわじわと血を吸って、重い。痛みを無視して駆ければ、フェリクスの姿を認めた琥珀色の瞳が、驚いたようにまるくなったのが見えた。――何やってんだ馬鹿! 死にぞこないの魔獣がおおきく吠えたせいでその声はかき消されたが、シルヴァンが何を言ったのかははっきりと分かった。――さっさと逃げろ!
「喧しい。借りを作るなど御免だ」
 シルヴァンの言うことは正しいのだ。きっと。今の自分ではいつもの力の半分も発揮できない。だが、それでも引けなかった。目の前の男を失うわけにはいかないのだ。王国としても、友としても、そして、フェリクスという個としても。
 あの約束を忘れたわけでもあるまいに、なにをやっているのか、と理不尽な怒りすら沸く。シルヴァンがフェリクスを跳ね飛ばした程度で、敵がフェリクスを諦める理由はどこにもない。それまで鬼人と見紛うばかりの活躍で、敵をばたばたと切り伏せていた男にようやく傷を負わせたのだ。単体で突っ込んできた見知らぬ男より、そちらを優先するのが公国兵の動きとしてはよほど理に適っている。シルヴァンとてそれは分かっているのだ。だからこそ、ああやって――あからさまにあの槍を振るった。まるで見せつけるように。
 公国兵の動きもあからさまだった。敵はもはやフェリクスを半ば無視して、さきほどからシルヴァンを狙って集中砲火を浴びせている。アイギスの盾は今は親父殿が持っている。顔を知らない限り、フェリクスの見た目だけで、フラルダリウス家の嫡子であることを疑えても確信をもつのは難しい。だが、英雄の遺産を持って単身飛び込んできた赤毛の男は話が違う。ゴーティエ家の嫡子。誰が見ても、それが明らかだ。

「邪魔だ!」
 フェリクスに気付き、構えを向けた兵を一閃で切り捨てる。一瞬視界がぐらつく。しかし今はそれに思考を割くことすら惜しい。肉体はフェリクスの願望を写すかのように滑らかに動き、素早く動く片足で地面を蹴って更に敵陣の奥地へとその身を躍らせた。
 魔法兵がこちらを狙うのが分かった。すべて躱す。躱しきれないものは剣で打ち払う。破裂の槍がつくりだす、禍々しい光が少しづつ近づいてくる。敵兵が斧を大きく振り上げて横薙ぎにした。避けるべく身をかがめた途端、足の痛みが思い出したようにフェリクスを襲った。肩から崩れ落ちるように身を投げ出して受け身を取る。
 まだだ。まだ、遠い。もうそこに見えているのに。

「何しに来た馬鹿!」
 頭上越しに声がする。肉声が聞こえる距離にいると分かって、言い表し難い安堵がフェリクスを襲った。
「それはこちらの台詞だ!」
 振り下ろされた敵の剣を更に地面を転がることで躱して、フェリクスはなんとか再び立ち上がる。ここが最後の一線だ。死ぬと分かっている戦いを続ける必要はない。シルヴァンはフェリクスにそう言いたいだろうが、それはシルヴァンにも当てはまることだ。戦い抜いて、こんなところで死ぬ気はない。ある程度敵を蹴散らしたあと、シルヴァンとふたり、後方へ引くことが今もっとも優先されるべき行動だ。フェリクスだけ引いたところで意味はない。
 二人は言い合いながら、敵をかき分け――敵を屠り、その死体をかき分け――ながら合流する。魔獣はいつの間にか死んでいた。魔導砲台からの攻撃がさきほどからないことからして、おそらく自軍が奪取に成功したのだろう。一番厄介なのを片付けてくれたのは有り難い。だからといって、目の真柄戦況が有利に傾くわけではないのだが。
「逃げるぞ!」
「それはもうさっき俺が言っただろ!」
 ぱちん、と間抜けな音がした。
 フェリクスの思考が停止する。それは時間にしてはおそらく数秒にも満たない僅かな時間であったけれど、フェリクスにとっては永遠にも等しい長さだった。ぐらりと崩れ折れた身体が、投げ捨てられたように地面に伏すのをみた。フェリクスの視界を鮮やかな赤が埋め尽くす。癖のある髪とも、禍々しき光を放つ槍とも違う。生きている人間の生命の、いろ。

「シルヴァン……?」
 人は死ぬ。死ぬのだ。憎き敵だろうと親しかった友だろうと平等に。それは己とて例外ではない。それなのに――当たり前のことに、どうしてここまで動揺しているのか。
 フェリクスは自分が信じられない思いだった。公国との戦いは日々苛烈さを増してはいたが、今日のこれは小競り合いと呼べる程度の規模だった。だからといって甘く見てはいない。戦いは、舐めた者から死ぬのが定めだ。フェリクスは多くの死線をくぐる中で、それを知識ではなく実感として知っている。
 それでも――己の死地はここではないと漠然と思っていたのだ。己の死地でないのだから、此奴の死地となるはずもない、と。
 ぐるりと胃がひっくり返ったような心地があった。吐き気がこみあげてくる。手が震える。指先の感覚がない。今、自分がきちんと剣を握れているのかすら自信がない。不安と恐怖をごちゃまぜにしたような嫌悪感が足先から昇ってきてフェリクスの脳を揺さぶった。息が荒い。意識的に呼吸を整えようとするが、うまくいかない。目の前の光景を飲み込むことができない。
 思考が追い付かないでいるフェリクスの横腹に、敵の蹴りが容赦なく突き刺さった。当たり前だ。ここは戦場だ。気を抜いた者からしんでゆく。そんなことは、もう嫌という程分かっていた筈なのに。げほ、と肺の空気をすべて吐き出した。苦悶の表情を浮かべる間もなく、更になにか硬いもの――おそらく武器の柄だろう――で背中を殴りつけられた。どこかの骨の折れる感触がする。
 頬にざらついた地面の感触がある。尖った小石が食い込んで痛い。視界の先に、シルヴァンが同じように地に伏している。穏やかな知性を宿していた榛色の瞳は澱んでいて、もはや何も映してはいない。死んだのだ、とようやく理解がおいついた。そうか、死んだのだ。国の為に戦って、王を探して、約束の日を夢見て数えて。そして。――行きつく先はこんなものか。
「そうか、ここが死地だったか」
 思い至った途端、ふっと身体が軽くなった。傷も、痛みも、なかったようにフェリクスは易々と敵の追撃を避けて立ち上がると、自然な動きで剣を振るった。感覚が異様に研ぎ澄まされている。相手の動きが手に取るように分かる。よく研がれた刀身に映る自分の姿は、笑っていた。
「死にたい奴からかかってこい!」
 あれは己の半身だ。
 ここは自分の死に場所ではないと思っていた。自分にはまだやらねばならぬことがあり、守らねばならぬものがあり、なにより、探さねばならない者がいる。だが、それでも――ここは自分の死に場所なのだ。今、それが決まった。であれば、一人でも多く道連れにするまで!
 フェリクスは細く長く息を吐いて、それから、裂帛の気合で剣を振るった。