下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆愛別離苦/王と盾

 

 強い花の香りに、フェリクスは思わず顔を顰めた。もう大樹の節も半ばである。窓から差し込む春の陽気は麗らかで、色とりどりの花は新しい年を寿ぐに相応しい。ここには穏やかな時間が流れているのだと、部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、理解してしまった。それを大層気に入らないと感じてしまうのは、焦燥感からか悲憤からか。

 会いたかった。許される時間のすべてを費やしてでも傍に居たかった。言葉が尽きるまでただただ話をしたかった。たとえ結果を変えることが叶わずとも、寄り添うことで満たされたかった。残された時間が決して多くないことは分かっていたからだ。
 それでも。
 会いたくなかった。顔を見てしまえば、残された時間の儚さを、自分の無力さを、思い知ることになると分かっていたからだ。
「……ディミトリ」
 なんとか絞り出した声は己のものと思えないほど硬質で、震えていないことが奇跡のように思えた。
 久方ぶりに目にした君主は、ひどく痩せていた。武人らしく、筋肉質で、目を惹くしなやかさを備えていた体躯は今や見る影もない。
 それは、片目を喪ってなお美しかった容貌にしても同様で。頬はこけ、肌色は悪く、髪は艶を失って久しいことを窺わせた。彼を苛む病の悪し様をまざまざと見せつけている。死期が近いことは、一目瞭然だった。思わずその手を握り、そして握り返してくる力の弱々しさに唖然とする。 
「フェリクスか」
  涼やかであった声は嗄れて、まるで別人に名を呼ばれたかのような錯覚を覚えた。王がこちらを見やる。視線は合わなかった。記憶の中の、深き海の底を映したようなうつくしい蒼玉はうっすらと濁っていて、フェリクスは胸を突かれた思いだった。

 人はいつか死ぬ。例外はない。そんな事は最初から知っていたはずなのに、まるで今初めて知ったような驚愕と恐怖がフェリクスを襲った。こみあげてくるものを抑えきれず、ぐ、と喉が不格好に啼いた。
 触れた指先は悲しいほどに冷たかった。