下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆春を待つ/ギュスタヴ

 凍てついた針葉樹林、万年雪をたたえる山脈、身を切るような冷たい風。北の大地に生きるということは、これらと共に生きるということでもある。人が平穏に暮らすには決して向いているとは言えないこの地で、それでもファーガスの人々がこれまで営みを紡いできたのは、四季と共に暮らす術を知っているからだ。
 時の流れを阻む術はない。時は誰に対しても平等だ。だが、やがて必ず大地が芽吹きの時を迎えるように、己の望む春が必ず訪れるかは分からない。未来永劫、望む景色を見ることが叶わない可能性もまた、無視できるものではない。

 そうして、ギュスタヴは春の息吹をじっと待っている。
「我々の主は唯一人、貴方様だけです。偉大なる騎士の王よ」
「勝手にしろ」

 アドラステアは恵まれた土地だ。広大な領土の中には、肥沃な大地、恵みの海、豊かな水源がある。農業も畜産業も、自国に比べて技術はうんと進んでいる。貴族はもとより貧民に至るまで、国全体がその恩恵を受けている。
 帝国にはファーガスの土地を欲する理由がない。かの女帝が求めているのがそんな、物欲と征服欲に塗れたものであればどれほど良かったか。この戦争の終わりはまだ見えない。自分たちの敗北条件はひとつだけだ。負けるときは死ぬときではない。負けるときは失うときだ。目の前の尊い首、そのたった一つを。

 それゆえに、ギュスタヴは春の息吹をじっと待っている。
「俺が死ねと言えば死ぬのか」
「貴方様が必要だと仰るのならば、甘んじて受け入れましょう。それが私の忠義です」
「健気な事だ」

 薄氷の上を進むような会話だと思う。ギュスタヴは騎士として、あの時永らえた命を無駄に捨てることはできない。だが王国の礎となるのならば、幸いだとも思う。
 目の前の美しい王は悍ましき獣の気配を纏ったまま嗤った。白皙の顔から宝石の如き双眸は失われて、ざんばらに伸びた髪はとうに艶を失い、眼の下の隈はまるで貼りついたように昼夜問わず彼を苛む悪夢の証。憂いの瞳は王国の未来も、目の前の民も映してはいない。ただ、死者の声に突き動かされている。

 それでも、ギュスタヴは春の息吹をじっと待っている。
「お前たちの王は死んだ」
「いいえ。……いいえ」

 守ることこそが己の責務だ。前王の訃報を聞いたあの時、己が生きていることがなによりも恐ろしかった。果たすべきを果たせず、擲つべき時に擲つことができず、なにが騎士か。
 この国を心から愛している。主君を、家族を、民を。それでも逃げたのだ。逃げるべきでないと知っていて逃げたのだ。幼い主君も、大切な家族も、己の心情と信条すらをも裏切って逃げた。それほどに恐ろしかった。ちらとでも夢想してしまえばもう駄目だった。あの国に踏み留まることは出来なかった。もしも――二度、守れなければ。それは死よりもよほど惨くて耐え難い責め苦だ。

 それから、ギュスタヴは春の息吹をじっと待っている。
「英雄の子が、子孫が、必ずしも英雄であるとは限らぬのです。それでも、」
「……」
「貴方は王となるお人です。どうか、それをお忘れなく」

 ギュスタヴは春の息吹をじっと待っている。待ち続けている。