下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆さよならも言わずに/アネット(FEH)

 アネットが親友のメルセデスと共にこの世界へ呼ばれた時、戸惑う二人に召喚師と名 乗る人物は「ディミトリもいるよ」と安心させるように言った。だからなんだ、と いま思い返せば思わなくもない。ディミトリが此処にいることと、 親友と二人で買い出 しに行った帰りに突然見知らぬ場所へ飛ばされることの是非はまったく話が違う。けれど、その時のアネットはそれを聞いて安堵した。殿下がいるなら大丈夫だ、と思ったのだ。穏やかな春の訪れを待つ、しんとした、静かな夜のことだった。

 それは根拠のない信頼であったかもしれないけど、事実として、アネットは今もこう して、この不思議な異世界でこれといった不自由なく過ごしている。元の世界に帰りた いと思うことも、父をはじめとする大好きな人たちに心配をかけているのではないかと 悲しくなることもあるけれど、まずはここで出来ることを頑張ろうと、そう思うのだ。  しばらくして、イングリットとシルヴァンがこの世界にやってきたと聞いた時、アネ ットの心に浮かんだのは喜びと、それと同じ程度のどうしようもない悲哀だった。先生 も居るのですね、とイングリットがどこか安心したように微笑んで、それを見た時アネットは、あの、召喚された直後の自分のことを思い出したのだった。先生がいる。だからなんだというのだ。もし兄がいたらこんな感じかなと密かに思っていたシルヴァンも、王都の学校で一緒がだったローレンツも、そのたった一言で当たり前のようにこの世界で過ごすことへの危機感を捨てた。あっさりと、世界を受け入れた。

 少し前にここへやってきたフェルディナントもそうだった。彼は、エーデルガルトが いるのであれば、と言っていた。「どこであろうと私の為すべきことは変わらない」と 胸を張った彼に、本当に? と尋れそうになってアネットは慌てて口を喋んだ。 それを 口にした途端、なにかおそろしいことが起きるような気がしたからだ。

 増えていく。 日年、増えていく。アネットが知る元の世界からははじめに級長三人と 先生がここに呼ばれたと聞いた。女神もいる、と先生は言っていたけれどアネットには よくわからない。分かっているのは、そのあとを追うようにヒューベルトが、ベルナデ ッタが、ベトラが、ヒルダが、リシテアが、そして自分とメルセデスがこの世界に呼ば れたということだけだ。増えていく。日毎、増えていくばかりなのだ、この世界は。フェルディナントが、イングリットが、シルヴァンが、ローレンツが。 アネットは恐ろしくてたまらない。アネットのいたあの世界はどうなっているんだろう。どうなってしまうんだろう。帰りたい、と強く思う。知っている人たちが「こちら」 に増えていくのがこわいのだ。もしかしたらある日その天秤はひっくり返って、まるで、 ここが「元の世界」になってしまうんじゃないか。級友に皆がいて、父がいて、母も伯父もいて……そしたらこの世界は、元の世界と何が違うんだろう。

 アネットは叫びだしたくなるきもちを抑えるように、隣にいる親友の手をぎゅっと握った。優しく握り返してくれる温かな掌を、絶対に、失いたくないと思った。