下郡中のログ庫

下郡(しもごおり)と中(あたる)のログ保管庫

◆死をもたらす獣

 フェリクスのそれを、忠誠、と人々は呼んだ。妄執に囚われ復讐に駆られ、正気を喪ってしまったかつての主を、自らの剣でもって終わらせたその在り方を。
 反吐が出る。そのように殊勝なものではないことは、自分が一番よく知っている。
 夢想と現実との齟齬を、呑み込みきれない己の無力さを呪った。葛藤が苛立ちへと形を変えるたび、己の未熟さを呪った。跳ね返った言葉はフェリクスの心に突き刺さったまま消えることはなく。どうしようもない矛盾を抱えながら、それでも自分は、いつか彼の為に逝くのだと思っていた。だというのに。
「地獄の底で悔いろ」
 ――笑い話にもならない。

 鈍い音とともに強烈な衝動が頭蓋を駆け抜けた。生命の維持に必要な、なにかが砕け散る感覚。視界が真紅に染まったかと思えば一瞬にして真っ暗になった。意識が遠のく。すべての音が消えた。
 これが死か。フェリクスは唐突に理解する。
 すべての生き物に平等に、たった一度だけ降り注ぐ終焉。
 握っている筈の剣の感覚がない。身体を動かす度に走っていた激痛がない。このまま喉と臓腑を焼くのではないかというほど苦しかった呼吸も、ない。それなのに、身体は燃えるように熱い。こびりついた血の匂いが消えない。
 こんなところで死ぬのだ。
 つまらない戦場だった。つまらない言い争いがつまらない小競り合いになって、それがつまらない戦いを招いた。小規模だけれど、紛れもない戦場を。フェリクスはそこで傭兵として戦っていた。この世は乱れている。戦争は終わり、表面上の平穏はしかし、あちこちに燻ぶる戦火の種を覆い隠せるほどではなかった。ここもその一つだ。敵を斬り、敵を屠り、このつまらない戦いを終わらせるのがフェリクスの仕事だった。それなのに。
 死神の手はあっさりと、フェリクスを捕らえてしまったらしい。フェリクスが探しているものは、まだ見つかってもいないのに。あの日の、平原からずっと。


『――地獄の底で悔いろ』
 全て斬ると決めた。決めていた。たとえそれが肉親であろうと、幼い日を共に過ごした相手であろうと。いずれ己が守るべき主君であった筈の男だろうと。
 あの地獄の入り口で、自らの手で沈めた蒼がこちらを見ている。暗い光を湛え、激しい怒りを宿した瞳は、吐き気がするほどに美しい。力強い、理想の王に相応しい双眸。それを前にしても、微塵も乱れることなく、フェリクスの剣は敵を殺す為の最適解をなぞった。フェリクスの心とは裏腹に。
『今の問答で、ようやくお前を殺す決心がついた』
 鼻で笑い飛ばせたらどれほど良かっただろう。正気を疑えたらどれほど良かっただろう。戦争の、こんな、どうしようもなく行き詰った泥と血に塗れた最終局面で聞かされるには、あまりにも残酷な。


 盾は王の為にあるのだ、と言い聞かされて育った。フェリクスは真っ直ぐにそれを信じていた。初めて引き合わされた日からずっと、彼に夢を見ていた。理想の王。理想の主。いずれ自分を傅かせる存在。この身も心をも捧げる存在。恋、などと可愛らしいものではなかった。愛、と呼べるほど崇高なものでもなかった。しいて言えば執着だ。たとえ死しても捨てきれぬ、そういう類の。
 一国の王子と臣下の子供。会えない時間の方が長かった。一方的に想いを募らせるのは、呆れるほどに簡単で。
 念願叶い、再会した王の器には、もはやフェリクスの両の手では塞ぎきれないほどの穴が空いていた。兄を失った悲しみを、父と解り合えない苦しみを、唯一分かち合える筈だった人は、フェリクスのことなど見てはいなかった。敵だけを見据えていた。その目に浮かぶのは、獰猛な獣のいろ。取繕われた微笑みから匂う、冷たい穏やかさ。守るべき主は、フェリクスの目の前で、世界で最も尊いその身を平然と粗末に扱った。盾など不要とでも言うように。
 それに気付いた時、フェリクスの心がどれだけ軋んだかなど、彼は知るまい。

 だから、かもしれない。
 新たな道標を見つけた、と思ったのだ。師と仰ぐ相手が、導く先について行こうと決めた。
 盾は王の為に。ずっと言い聞かされていた。盾は、王と分かたれて存在する意味がない。だが、王は盾の為に在りはしない。盾は王と共に在るから盾足り得るのだ。離れてしまえば道を踏み外す。その道筋を辿った先に、答えはひとつしかない。理解していた。理解できていた、つもりだった。


 半ば飛んでいた意識が徐々にはっきりとしてくる。それと比例して、わんわんと頭の中で反響するのは声のようななにか。
 ――戦え。殺せ。抗え。
 もう限界だ、とどこかが叫んでいる。体か、心か。
 それでも俺はやらねばならない。フェリクスは剣を探す。剣は、どこへいったか。まだ握っているのか、もう取り落としてしまったのか、それすら分からない。盾はある。フェリクスの命を繋ぐ役には立たなかったけれど。もともと構えてはいないのだから、当然か。フラルダリウスの名を捨てたのに、結局、使いもしない盾を手放すことは出来なかった。皇帝はそれを許した。武器ではないから脅威ではない、などという釈明がどれほど欺瞞に満ちていたかも、フェリクスほどの武力をなんの首輪もつけず放置する厄介さも、理解していただろうが。ああ、いや、今はそんなことはどうでも良いのだ。剣を、構えなければ。
 まだ残っている。敵を。見つけねばならない。
 探している。なにかを。為さねばならない。
 残されている。命が。残されてしまった。
 置いていってしまった。置いていかれてしまった。
 ゆえに求めねばならない。死に場所を!

 ぐわん、と脳が揺れる。そうだ、自分は死に場所を探していたのだ。あの日、平原で見失ってしまったものを。
 こんなところで死ぬなど御免だ。真っ平御免だ。盾にも剣にもなれなかった自分は、あの時ようやく命の使い道を知った気がした。なのにこの身は呆れるほど脆く、手の届く範囲は嗤えるほど狭く、今やこうして、この命のすら零れ落ちようとしている。
 死は懺悔ではなく、死は贖罪ではなく、しかし死は救済であった。だからこそ、まだ死ぬわけにはいかない。救済されるには己はまだ。あまりにも足りていない。

 ――あの地獄の入り口で、自らの手で沈めた蒼がこちらを見ている。

 全身を引き裂かれるような、骨と内臓を見えない手でまとめて掴まれたような、身体ごと別の何かに造り替えられるような、気持ちの悪い痛みが全身を這いずる。ぐちゃ、ぐちゃり。巨大力を秘めた塊を、身体の奥深くに埋め込まれたような感覚。それは異物でありながら、フェリクスの身体に妙に馴染んだ。よく知っている、かつて己の名の一部でもあった、それ。
 悍ましさに、全身の神経が悲鳴を上げる。戻って来た痛覚が、それ以外のすべてを奪い取ってゆく。頭蓋ごと思考を握りつぶされるような激痛。

「地獄の底で悔いろ」
 ――貴様、また少し、背が伸びたか。
 あの地獄の入り口で、そんな、馬鹿みたいな感想を抱いた。

 唸るような呼吸が口から漏れた。視界が戻ってくる。随分と視点が高く感じるが、そんなことはどうでも良かった。戦わねばならない。俺はまだ死ねない。
 目の前の敵どもを腕でまとめて薙ぎ払い、片っ端から踏み潰してゆく。骨が軋み、肉が悲鳴を上げ、あちこちの皮が爆ぜた。
 ⋯⋯薙ぎ払い? 剣はどこへいった。踏み潰して?
 悲鳴が上がる。誰かが何かを叫んでいる。視界の隅で何かが煌めいた。突き出された刃だと理解するより先に、持ち主ごと纏めて吹っ飛ばす。吹き出す鮮血。短い断末魔。折れ曲がった槍。原型がわからぬ程破損した、かつて肉体だったもの。
 なにかがおかしい。おかしい? なにが?
 殺さねばならない。贖わねばならない。⋯⋯なにに対して?
 前方にいた敵を足で踏みつけながら、距離を詰める。死角から突き出された剣が膝に刺さった。鬱陶しい。苛立ちを制御することなく、力任せに相手の首を捩じ切った。逃げ出そうとする敵を頭蓋から叩き割る。あっという間に趨勢は決した。逃げ惑う「敵」をひとつ残らず屠ってゆく。

 ……なにか、引っかかっていたことがあったような気がするが。まあ、良いか。
 吼える。湧き上がる衝動は、憤怒であり、哀哭であり、渇欲であった。しかし彼の喉から意味のある音はついぞ出ず、他に動く者の居なくなった戦場には、獣の咆哮があがるのみだった。
 獣は少しずつ忘れてゆく。自我を、記憶を。少しずつ失ってゆく。望みを、祈りを。少しずつ棄ててゆく。理性を、思考を。そうして残ったのは、妄執と狂気。それを殺意に変えて、殺戮を繰り返すその獣の名前を知る者はいない。

 

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フェリクスくんお誕生日おめでとう~!(最悪の〆)